日本内経医学会 岩井 祐泉
森立之研究会誕生まで――岡田研吉先生と私
岡田研吉先生は平成八年(一九九六),札幌で開かれた日本医史学会で,郭秀梅先生と連名で「『傷寒論』の[煎・熬]に対する,『方言』による解釈」という口演をした。漢代の字書である『方言』を『傷寒論』研究に用いたのには江戸考証学,なかんずく森立之の影響があったようであり,似たようなことをする人もいるのだと思ったものである。
じつは私も平成四年(一九九二),金沢での同学会に「半井本『医心方』の病名仮名訓」という口演で参加させていただき,森立之の考証学の師であった狩谷望之の『箋注倭名類聚抄』を引いて,病名「失音」の『医心方』古訓注「コロロク」は誤りであるなどの指摘をしていた。
その森立之(一八〇七〜八五年)については,小曽戸洋『日本漢方典籍辞典』(大修館書店,一九九九年)に次のような記述がある。
「十五歳で家督を継ぎ,福山阿部侯の医員となったが,天保八年(一八三七)禄を失い, 落魄して十二年間家族とともに相模を流浪した。弘化五年(一八四八)帰参して江戸に戻り,医学館を活動拠点として古典医書の校勘業務や,研究・執筆に従事した。維新後はすでに没した先輩や同僚の業績を引き継ぎ,考証医家の第一人者として名をなした。」
平成十年(一九九八)二月には,私が所属する日本内経医学会と北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部によって,森立之の主著の一つである『素問攷注』の翻字校刊本が上梓された。その出版記念に,千頁近い新刊書を池袋・洞雲寺の森立之墓前に供え,ささやかな記念会を催した。その折,この『素問攷注』に序文を書いていただいた中国の銭超塵先生の主催する国際学会が九月にあるということを知らされ,早速参加することになった。
その学会というのは,李時珍生誕四百八十周年記念一九九八年国際学術研究会で,日本からは茨城大学教授・真柳誠先生,日本医史学会・岡田先生,同・郭先生,そして私の四名が参加し,記念すべき出会いとなったわけである。李時珍の学会であるから,その郷里である湖北省・?春県ののどかな田園風景に囲まれたところで行われた。
岡田先生の発表は「敦煌出土文献について」,また私のは「『奇経八脈考』引用文献について」というものであり,学会のあとも武漢でともに黄鶴楼を訪ね,別荘地区である東湖で遊覧船に乗り,すっかり意気投合した「四人組」であった。
帰国後,岡田先生が『東洋医学』誌に「『傷寒論』異聞」という『太平聖恵方』を使った力作論文を連載していた(一九九三〜九四年)ことを知った。それから,岡田先生は私が講師をしていた内経医学会の東京・湯島聖堂での医古文講座に顔を見せるようになった。また,岡田先生が森立之『傷寒論攷注』の中国での出版を目指したパソコン入力作業を郭先生と共同で進めていることを知り,その綿密な作業ぶりに驚かされて,『傷寒論』研究と『内経』研究の変わり種同士はいっそうの親交を深めたのである。
翌・平成十一年(一九九九)には,湖北の李今庸先生が主催する「第二回国際伝統医学学術研究会」に岡田先生・郭先生ともども参加させていただくことになった。学会会場が湖北省の山岳地方にある道教聖地・武当山(映画「グリーン・デスティニー」の舞台にもなった)ということで,その前に湖南省張家界という,かつての武陵桃源,数百メートルの石柱が三千本余りそそり立つ奇岩群峰に寄り道した。ちなみに,張家界も武当山もそろってユネスコ世界遺産なのである。
桃源郷観光のあと,深夜発の夜行列車に乗り込み,約五百キロ北の湖北省襄樊経由で武当山に向かった。車中のつれづれに携帯ランプの灯の下で「雪豹ビール」の栓を抜き,話題はいつしか「『傷寒論』の文体」ということになった。「文体からみてあきらかに注記と思われるものが経文(テキスト)に紛れ込んでいるということはよくあるんです」,そういう話をしているうちに「『傷寒論攷注』を読もうよ,ただ読むだけではもったいないから,研究会を作ろうよ」ということに話が進んだ! しらじら明けの車窓から茫々たる初夏の湖北平原が見え始め,どっしりした水牛の背にぽつんと白鷺がとまっていた(古代幻想)……。
こうして森立之研究会が誕生したのであった。
『傷寒論攷注』を読む会の発足――小高修司先生・牧角和宏先生
平成十二年(二〇〇〇)二月五日,旧暦の辰年元日(春節),七十二候もめでたい東風解凍にあたり,森立之研究会により東京・千駄木の日本医科大学講堂で『傷寒論攷注』を読む会が発足した。発会記念ゲストに北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部部長の小曽戸洋先生を迎えた。小曽戸先生は二十年前の一九八〇年に,国立国会図書館に森立之自筆『傷寒論攷注』全三十五冊の複写申請をしたご本人である。なにしろ森立之は考証医学の集大成者としてその名こそ知られていたが,その著作は『本草経攷注』(一八五七年成る)や『経籍訪古志』などの例外を除いて人の目に触れることがなく,『素問攷注』(一八六四年成る)とともに『傷寒論攷注』(一八六八年成る)は小曽戸先生によって発見されたといってよい。『傷寒論攷注』を読む会の発足に当たり,まことに記念すべき講演となったわけである。
『傷寒論攷注』を読む会では,当初から岡田先生らのパソコン入力による翻字テキストを用いていたが,平成十三年(二〇〇一)十月,北京の学苑出版社からいよいよ本書が上梓されたとき,郭先生の需めにより小曽戸先生はその序文を寄せられた。
「郭秀梅女史と私は八年来の学友である。一九九四年から私の勤める北里研究所東洋医学総合研究所医史学研究部の研究員として所属されているが,枳園先生(筆者注:枳園は森立之の号)に私淑し,心の師とするという点においては同門人といってよい。郭女史は日中医学交流史の研究においても卓抜した研究業績を挙げられ,本年,その業績が評価されて,順天堂大学より医学博士の称号を授与された秀才である。……
『傷寒論攷注』脱稿よりいまに至ること百三十余年,漸く翻字校刊される。しかも,中国人学者の手によって,本家本元の中国で出版されるのである。天界にあって枳園先生のお喜びはいかばかりか。それを想うと,私は目頭が熱くならずにはいられない。」
小高修司先生は発足当初から本会に参加されており,東京中医研から多くの受講者を連れてこられたのみならず,毎回のように講師らに鋭い質問を浴びせてよい刺激を与えてくれる。また平成十五年(二〇〇三),中国文学にも造詣の深い先生が論文「白居易疾病攷」を『日本医史学雑誌』に投稿されたときには,私に査読原稿が回ってきて驚いたことがある。小高先生は論考・随想などの執筆が多く,折にふれて本会の紹介を書いておられるが,以下は『伝統医学』誌第二六号(臨床情報センター,二〇〇四年)より。
「岩井先生は毎回詳細な「提要」を用意され,それにもとづいて講義なさるのでわかりやすい。
また,この会は前半一時間をその都度日替わりで,いろいろな先生方が講師を務め,種々なテーマで話をしてくださる。岡田研吉氏は独特の切り口で,医学古典に関するさまざまな問題を詳細かつ大部な資料として提供され,牧角和宏氏は多年の労作である諸文献を駆使しての条文比較資料を作成し,特に「傷寒例」以降は『傷寒論攷注』の学習にも大いに裨益している。」
ここで「条文比較資料」といわれているものは,二〇〇一年一月八日付けの「傷寒論弁脈法条文対照表」に始まる諸資料のことである。『傷寒論攷注』を読む会の進捗はのんびりしたもので,平成十二年(二〇〇〇)十二月十六日の第二十一回で張仲景序を読了,平成十三年(二〇〇一)一月十三日,弁脈法第一に入った。牧角和宏先生は平成三年(一九九一)に岡田先生が福岡で講演したとき以来の旧友で,『宋板傷寒論』を始め,『脈経』・『金匱玉函経』・『太平聖恵方』などを入力し,条文の対照による本文批判の成果を上げていた。また『中医臨床』誌(東洋学術出版社)に「『宋板傷寒論』(明・趙開美本)について」を発表し(一九九八年),弁脈法・平脈法・傷寒例や可不可篇が重要視されてこなかった事情を考察している。牧角先生が作った「対照表」は『宋板傷寒論』と『千金方』・『外台要方』・『金匱玉函経』・『太平聖恵方』,それに弁脈法では敦煌出土文書などの同一条文を一句ずつ対照させた一覧表で,たいへんありがたいものである。
それだけではなく,牧角先生は私の『傷寒論攷注』逐条解説と並行して,『傷寒論』研究の全体像を把握するような情報解説を依頼されており,真柳誠先生や東京理科大学助教授・遠藤次郎先生もそのような情報提供の講義に見えたが,牧角先生はほぼ毎月一回の割合で福岡から上京されるようになり,本会では欠かせない名講義を続行中である。
またこれより前,牧角先生は平成十一年(一九九九),東京で開かれた日本医史学会で「宋以前の『傷寒論』について――朝鮮古医書『医方類聚』からの考察」という口演をしていた。李氏朝鮮の医学全書である『医方類聚』三百六十五巻の母国の原本はすでに失われ,わが国の宮内庁書陵部の所蔵本よりマイクロコピーを取得するというのが,現在,本会が着手している事業の一つでもある。これが,傷寒門だけでも巻二十七から巻四十三まで十七巻にわたる分量なので,なかなかの難事業なのである。
平成十三年(二〇〇一)十月六日には平脈法第二に,平成十四年(二〇〇二)七月二十七日には傷寒例第三に入った。この年の秋,日本東洋医学会平成十四年度第一回東京都部会が行われ,シンポジウム「江戸医学館の業績」において私は「森立之の功績」を話す機会を与えられた。
平成十五年(二〇〇三)九月六日には弁痙濕?証第四,同年十二月二十日には弁太陽病脈証并治上第五,平成十六年(二〇〇四)十二月十八日に同第十三条,平成十七年(二〇〇五)十二月三日に同第二十五条,平成十八年(二〇〇六)九月三日にようやく弁太陽病脈証并治中第六に入ったところである。
『傷寒論攷注』を読む意義
森立之は文政五年(一八二二),十六歳で伊沢蘭軒に師事し,『傷寒論』を学び始めた。その前年,養父・恭忠が他界し,藩医の職を襲って禄高百石を賜ったばかりである。医師としての森立之の人生は『傷寒論』に始まったわけである。そして三大医学古典(『本草』・『内経』・張仲景方)に対する「攷注」の最後として元冶元年(一八六四),森立之は『傷寒論攷注』の執筆を開始した。本書も『本草経攷注』や『素問攷注』同様に医学館での講義と並行して執筆が進められていた。しかし慶応四年(一八六八)春,本書が完成する前に西軍が江戸に迫り,医学館が傷病兵の収容施設として使われるために講義のほうは二月七日を最後に休講となり,おそらく巻二十五の「少陰病」までしか行われなかったようである。巻二十六〜巻三十四は三月二十三日までに急速に脱稿され,巻三十五は成立の日付は明らかではないが,さほどの日数は要さなかったであろう。
同年七月に医学館は閉鎖,江戸は東京と改められ,森立之は新政府の医師となることを辞退して医業を廃することとなった。まさに森立之の医学人生は『傷寒論』に始まり,『傷寒論』に終わったといえよう。巻三十末の二月十八日付の跋にいう「余が五十年来の精神の専注する所は唯だ此の三十巻中に在り。其の(張仲景の)家説秘訣の如きは其の理玄妙幽微にして蓋し其の人に非ざれば伝うる可からず。仲景以後,以心伝心の至意は久しく其の伝を失い,注家の皆文字上に就いて解説せるは,但だ是れ堂に昇って未だ室に入らざる(奥義に達していない)の徒なるのみ。今其の偏陋を看破して臨症実詣の地に帰するときは,則ち仲景の書,始めて読むべくして,始めて今日に施用す可し」と書かれている。
本書の執筆の目的が「実事求是」(事実にもとづいて正しい結論を求める)にあったことを雄弁に物語るものであろう。たとえば『素問攷注』の執筆にあたって文政年間に発見された仁和寺本『黄帝内経太素』が用いられたように,ふさわしい文献を用いる,というのもその目的のために必要な方法の一つである。
『傷寒論攷注』でもやはり新発見の文献が用いられた。新発見といっても,大名家や藩医,あるいは宮廷医の蔵書で所在がわかっていたものが,ようやく閲覧筆写を許されるといった発見もあり,あるいはある日突然,古書商が持って現れるものもあった。
真本『千金方』は平安時代のすがたを伝えるもので,正和四年(一三一五)に宮廷医・和気嗣成が書き写したものを,巻一のみではあるが,どうやって手に入れたものか,文政年間(一八一八〜三〇)に書商・英平吉が携えて,当時医学館の責任者であった多紀元堅のもとを訪れ,十両で売却した。巻一のみではあるが,仲景序の異本を収める貴重な文献である。安政三年(一八五六)から医学館の講師となっていた森立之が閲覧を許されたことは言うまでもない。
金沢文庫旧蔵の南宋刊本『備急千金要方』は米沢・上杉家の蔵書であったものを,幕命によって提出させ,嘉永二年(一八四九),医学館でその翻刻を行ったものである。翻刻本の末尾には総閲・多紀元堅,校勘・福山医員伊沢柏軒らの名と並んで,「医生・森立之」とある。帰藩が許されたのが前年の嘉永元年であったから,まだ講師にはなっていなかったが,校勘に従事していた。
北宋刊本『外台秘要方』は室町時代の入明医師・竹田昌慶が天授四年(一三七八)に帰国した際に持ち帰ったもので,子孫の紀州藩医・竹田純道所蔵であったが,嘉永二年(一八四九),幕命により江戸に送致せしめ,嘉永六年(一八五三),医学館にてその精写が完成したものである。総閲・校勘は『千金方』翻刻と同じで,森立之の名も校勘の下に並ぶ。これも翻刻される予定であったが,次に述べる『医心方』の校刻が優先されて先送りにされ,そのうち時勢が急変したため,結局翻刻はなされなかった。ちなみに竹田家所蔵の原本は行方不明であるという。
『医心方』は平安中期に丹波康頼によって撰せられ宮廷に献上された。丹波家に伝えられた副本はいつしか失われ,宮中に伝えられた古写本が正親町天皇のとき(一五六〇〜八六)典薬頭・半井光成に下賜されて以来,それは京都・半井家に秘蔵され,代々伝えられていた。多紀氏の願い出により幕府老中・松平定信はその探索を命じたが,ようやく仁和寺蔵の残欠本(全三十巻中十六)を見出したのみで,半井家は旧蔵本を天明大火(一七八八)によって消失したと言い逃れていた。
ところが,嘉永七年(一八五四)四月,典薬頭・半井広明は老中・阿部政弘の周旋により,一転して『医心方』提出を承諾し,十月,『医心方』全巻は江戸に届けられた。安政元年と改元された十二月,医学館により精写本が作成され,同六年(一八五九)には校刻本が刊行された。その安政元年の精写本では総理には多紀元堅の名があり,また校勘には森立之と親友の渋江抽斎の名が並ぶ。しかし安政六年校刻本では多紀元堅の名も,また渋江抽斎の名も見えない。安政四年(一八五七)に多紀元堅が六十三歳で没し,また翌・安政五年に親友の渋江抽斎はアメリカ船ミシシッピ号により持ち込まれ流行したコレラのために五十四歳で没していたのである。医学館の人々が文字通り心血を注いだ『医心方』は森立之の心強い味方であったに違いない。
医書ばかりではなく,唐以前の面影を伝える真本『玉篇』,『一切経音義』などわが国にのみ伝えられた文献,『和名抄』や『新撰字鏡』などのわが国で作られた文献などを含む豊富な文字学資料の使用も特徴的である。また,これこそ森立之の考証学者としての面目躍如たる一面でもあった。
日本の古典研究のこれから
私は鍼灸専門学校の教師をしているが,そこの若い学生が提出してくれたレポートをぜひ紹介したい。もう卒業しているので,差し支えないのではあるまいかと思う。
「今回のレポートは,『太平聖恵方』とホメオパシーという,時間も距離も遠く離れたところでまとめられた治療法の中から,トリカブトを使用した処方を取り上げることで,トリカブトの毒としての害を最小限に抑え,薬としての益を最大限に引き出そうとする 工夫の一端を感じてみようとするのが目的です。
『太平聖恵方』を選んだのは医学史の授業がきっかけです。記憶が曖昧なのですが,授業の中で次のようなお話がありました。「漢代の名医で“医聖”と呼ばれた張仲景の 『傷寒論』はSARSの治療でも大いに役に立ったが,“もっと古い『傷寒論』”には,植物毒や動物毒を使った強い処方もどんどん出てきます」。
この“もっと古い『傷寒論』”に私は非常に興味がわきました。そこで教えていただき,『季刊内経』で発表された岩井先生の研究論文「古佚傷寒例提要」(筆者注:『季刊 内経』は日本内経医学会の会報,「論文」とあるが本会で傷寒例を読んだときの「提要」の転載である)を読むと,戦乱の中で散逸し名をなくした『張仲景方』の内容が『千金方』『外台秘要』『太平聖恵方』などに流転していったとあり,なるほど,“もっと古い『傷寒論』”とはこれらのことを指しているのだな,と興味深く感じました。
上記のような考えをもとにすると,『太平聖恵方』巻八〜十一の傷寒についての記述部分には,紀元三世紀頃に張仲景が著したとされる『張仲景方』の当時の内容により近いものが含まれていると考えられます……。
ホメオパシーにおける「アコナイト」は……(一度調子を崩すと)急に悪くなる,乾燥していて熱い肌をしている,冷たいものを飲みたがる,などの特徴がある人で,強い恐怖やショックのあるときに悪化,夕方から深夜に悪化,冷たく乾燥した風に当たると悪化,触れられると悪化し,外気を吸い,休息をとると症状が好転するような人に用いられます。また風邪の引き始め,発熱・炎症などの初期症状にもよく用いられます。附子とアコナイトがそっくり対応しているわけではありませんが,アコナイトの適応例で下線に注目すると,陽虚・虚熱などが予想されると思いました。……また宋改前の傷寒治法では熱病の初期でも,寒邪に対し熱薬附子剤を使っていたという点がアコナイトと共通するのが興味深い点です。
添付資料1は,オリエント出版社発行の『太平聖恵方』,『福岡医師漢方研究会報』 により『太平聖恵方』巻八,九,十,十一のコピーで,「附子,烏頭」の記述がある 部分を付箋とマーカーで示しました。」
「当時の内容により近い内容が含まれている」というのはきわめて健全な考え方である。また『福岡医師漢方研究会報』,すなわち牧角先生の作った『太平聖恵方』資料をコピーさせたのは私に違いないが,それを嬉しいことに学校図書館のオリエント出版社本と対照してくれているではないか。
牧角先生から「傷寒例を読んだときに,『宋板傷寒論』に他のテキストにおける時気病の病態解説条文が混入していることを岩井の指摘により認識し,それまで曖昧であった『宋板傷寒論』の特殊性・編纂方針を明確に理解できるようになり,研究者間の情報提供・場の共有がいかに大事かを身をもって知らされた」というメッセージをいただいた。 ホメオパシーを学んでいた若い研究者に漢方の世界に目を向けさせたもの,それはまさに「情報提供・場の共有」に他ならないであろう。
東洋学術出版社『宋以前傷寒論考』より許可を得て転載
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